お礼なんていいですよぅ~
大抵の善意の裏には「見返り」を求める心が少なからずあって、良いことをしたらお礼を言われるのが当たり前だと思ってしまっている。
善意を押し付けて相手に感謝されることで、自分が満足しようとしていないだろうか。
いつの間にか独りよがりな善意を押し付けていないか。
そんな風に不安になることがあります。
今日はそういう話。
父「それなら最初から譲るな」
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まだ免許を取得したばかりのころ。
助手席に父をのせて、私は運転していました。
横道から別の車が出てきたので、私はその車に「お先にどうぞ」と前方を譲りました。
その時、相手の車からお礼(会釈したり、ハザードランプを点滅させてお礼のサインをしたり)が無かったので、父にぼそっと「お礼してくれなかったね」って言ったんです。
そしたら父が厳しい声で「そんな風に言うなら最初から譲るな」と言いました。
私ははっとしたんです。私は「お礼を言われるために」譲っていたんだと。
道を譲ってもらったらお礼を言うのは当たり前だし、私は人に何かしてもらったらお礼をしたいと思っている。父もそういう考え方の人です。
ただし、だからといって相手が思ったお礼をしてくれなかったときに腹を立てるのは違うだろうと父は言いたかったわけです。
こっちが勝手に譲ったんだから、お礼がないからと怒るのは筋違いだと。
父は『別にこちらが優先道路なのだから譲らなくてよかったところを、わざわざ譲ったところに感心していたのに、そんな文句を言うからつい怒ってしまった』
『父さんもあの場では相手のお礼を期待すると思う。でも残念に思ったとしても口に出してはいけない』と、道中話してくれました。
相手に何かしてあげたいと思ったなら、見返りを期待しないで心からしてあげなさいとも。
それって自己満の善意じゃない?と一旦考える
上記の父の意見には賛否あるとは思いますが、私は相手からのお礼や見返りがなくて残念に思った時に「これは自己満ではないだろうか」と一瞬立ち止まって考える良い教訓になっています。
誰かにこう思ったことはありませんか?
『いつも良くしてあげてるのに、相手は何もしてくれない』
『喜ぶと思ってやったのになんだその態度は』
同人でよくありそうな感じで言うなら
『感想を送ってるから相手に好かれているはず』
『新刊を無料で配ったら喜んでもらえるはず』
お心あたりはないでしょうか。
無意識に見返りを求めて自己満足の材料にしてしまってる場合って、結構あると思うんです。
感謝されることで自己肯定感を高めることは悪いことではありません。しかし、やりすぎると恩着せがましくなってしまいます。
その善意が独りよがりになっていないか、時々立ち止まって考えてみましょう。
嬉しいかどうかは相手が決めること
過去にいただいたおたよりの中にこういった内容のものがあり、やんわりと「それは『あなたがそうしたいから』しているだけであって、相手がそうして欲しいとは限らない」とお答えしたら怒らせてしまったことがあります。
その方は長文の中でひたすら、お相手にこれまでしてあげたことや、相手が喜ぶと思って心がけていることなどを列挙しておられましたが、何と言いますか「相手がそうして欲しいと、一度でもあなたに言ったのか?」と聞いてしまいたくなるような文面でした。
相手が喜ぶかどうか、助かるかどうか、感謝するかどうかは相手が決めることであり、こちらが決めつけることではありません。
相手に積極的に善意を押し付けることで「私はあの人に感謝されている」「私はあの人に好かれている」と勘違いしていませんか?
コミュニケーションとは、「相手がしてほしいと望むこと」をまず考えるべきであって、相手が何も言っていないのに、「こうすれば嬉しいはずだ」と押し付けるものではないですね。
友人が、「『おためごかし』って言うよね」と言っていて「それだ!」と思いました。
自分が満足するために善意を押し付け、相手から「感謝」を搾取していないか。
車を運転して道を譲るたびに父に言われたことを思い出しては自分を省みています。
父は絶対覚えていないけれど、今度実家に帰ったらこの話をしてみようかなと思いました。
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